昭和42年9月20日 夜の御理解
生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり。一心に願え、おかげは和賀心にありと仰る、その和賀心は、もちろん、和は和らぐということであろう、賀は賀ぶ心である。そこで、その、和らぐという心と、賀ぶという心は別なのである。ね。心が安らいでおるというだけではいけない。心が円満な、大人しい人だというだけではいけない。なるほど、信心させて頂いておると、どんな場合でも心に安らぎがたしかに頂けれる。誰よりも強く頂くことが出ける。
神様にご守護を受けておるんだ、神様のお守りを受けておるんだという安心があるからである。だから、そういう、その、心が大事なんだけれども、まあ、その和の心だけではいけない。それに賀ぶ心というものが伴うて、初めて、おかげは和賀心にありと、こう仰る。
和の心、賀びの心。ね。そこで、その、お互いが和の心を頂きたい、賀びの心を頂きたい。ね。確かに、安らぎの心、和の心は持っておるんだけれども、賀びの心がない、薄いという人がある。和の心は持ってないけれども、信心の喜びというものは非常に強い人がある。ね。
ですから、それは、車の両輪のようなものであるから、その両方が頂けて行くところの信心を頂かなければならん。ために、和の心を頂くためには、どういう在り方にならせて頂いたら良いか、と。賀びの心を頂かせてもらう、湧いて来るような賀びに触れたいと言うならば、どういう信心をさせてもろうたら、その賀びの心が湧くかというところに焦点をおいて、信心のけいこをさせてもらい、信心の修行をさせてもらわなければいけん。ただ、拝んでおります、ただ、参っておりますというだけじゃいけん。
ここんところを、私、今までは、おかげは和賀心にあるんだと、和らぎ賀ぶ心にあるんだと簡単に言うて流しておったけれど、この和らぎ賀ぶ心というのは、別なものだということ。和らぐ心と賀ぶ心と。ね。ですから、ここんところを、一つ、賀の心を追求する、賀びをいよいよ深めて行こうとする精進。
昨日、そこの田中さんの奥さんが合楽会で発表しておられましたが、先日からあの、出雲の方へ部落の方達と一緒に旅行をした。何十人かの方達が、まあ、行ったわけなんですね。道中、様々な景色の良い所が、特にあの、二見が浦辺りの景色というものは、本当に絶景である。素晴らしい、その景色に触れてです、はあ、何と素晴らしい、その、景色であろうか、と。思う度に感激したと言われる。ね。
これは、どうしたことであろうか。いや、そりゃあ、景色はよかけん、もう、私だんな涙までは流れんというのが、その、皆の方の(言うことです?)。素晴らしい景色だ。ほれは、家辺りで見ることの出来ない景色だと言うて、景色を、いや、誉めもすりゃ称えもする訳だけれども。ね。ただ、その、涙がこぼれるように感じる人もある。田中さんだけであった。
どういう事だろう、私は涙もろいとじゃろうかという事になるのですけれども、決して、そうではない。そこで私は、日頃、信心させて頂いておる、教祖の神様いわゆる、金光大神様の御取次を頂いて、天地を対象とした。天地自然を対象としたところの信心。言うなら、その天地自然と、私ども、小自然の私どもというものが、いわゆる、親と子とがいつも、信心によって、金光大神の取次によって、こう、繋がっておる、交流しておる。そこにです、例えば、ね、天地を褒めたんです、称えたんです。心から素晴らしいなあ、と思ったんです。それを、もう、神様が受けてござるという感じが致します。
神様が喜んでくださる、ね、素晴らしい景色だなと言った時には、もう、天地を称えておる時なんだ。ね。久富繁雄さんがよく言われる中に、それを言われたですね。野菜も出来が良い。と、先日、蒔いたばっかりの、その、例えば野菜なら野菜がです、芽をきる。青々として、その、葉が出て来る。まあ、何と天地の働きの素晴らしいことであろうかと、心に思うただけで、跪かなければおられんような感動が湧いて来ると、こう言う。信心の有り難いようなところは、そこだと私は思うんですよ。
私どもが金光大神の御取次によって、天地といつも交流しておる、天地に繋がっておる。ですから、私どもが天地のその働きを褒めた時に、称えた時にです、まあ、何と素晴らしい神の働きであろう、天地の働きであろうかと思うただけで、感動する。大地に跪かなければおられないような喜びが、心の底から湧いて来る。それは、久富繁雄の感動ではなし、田中初美の感動でもない。それがそのまま、神の感動であり、神の喜びなんだ。通うのである。そういう喜びというのが、私は信心の喜びだと思うのです。
素晴らしかね、この景色は、と。素晴らしかと褒める、称えておることは同じなんだけれども、天地に繋がった者が、なにものもない。ね。私は本当にです、ね、天地の全ての者が、ほめたたえられてから感動が湧いて来るようなおかげを頂けれる、そういう、私は生活。ね。そこで、素晴らしい景色だな、素晴らしい見栄えだなというだけではなくてです、どのようなことの中からにでも、天地を褒め称えるというか、その成り行きそのものを有り難く受けるという、その心がです、そこに感動があるのである、喜びがあるのである。
いわゆる、和賀心の賀である。信心させて頂く者は、お道の信心で言う、私は喜びの心とは、そういうものだと思う。自分一人の、自分の喜びではない、神の喜びだという喜びなのだ。そこに、おかげとの交流がいつも計られておる。願わんでも頼まんでも、おかげがここから交流して来る。この道を辿ってくる、おかげのルートなのだ。ね。
そこで、私どもがいよいよ天地の大恩、天地の御恩徳というものを、本当に、心の底から分からせてもらわなければいけない、ということである。ね。病気をしておる、たったこれだけ。ね。その一つの病気を、私のような不幸せな者があるだろうかといったような思い方に、おかげの受けられるはずはないということ。
手も動いておる、目も見えておる、足も動いておる。ただ、この( )といものが、肺なら肺というものだけが、例えば、不調である。そこが完全じゃない、そこだけが痛むのである、と。ね。痛いことは痛い、苦しいことは苦しい。けれども、その他の一切は、他のことの全てはおかげを受けておるのであるから、痛うございます。痛うございますけれども、このようにおかげを受けておりますという、そのお礼心。
おかげをおかげと分かるところにです、おかげをおかげと分かるところ。神の働きが働きと分かるところ。神の働きの素晴らしさを分からせて頂けば頂くほどに、ね、神の感動があり、それが伝わって、私どもの心の喜びとなり、感動となって来る。ね。その賀びの心に和の心、平和の和である。
生神金光大神、天地金乃神一心に願え。金光様どうぞお願い致します、天地の親神様お願い致しますと言うて、一心に願いを立てりゃ、どうぞ病気を治して下さい、お金を儲けさせて下さい。このことを、おかげを成就して下さいと言うて願うのではないのぞ、と。ね。生神金光大神様、天地金乃神様、どうぞ、おかげをおかげと分からせて下さい、という事なんだ。ね。
神様の働きが働きとして分からせて下さい、と。この神様なしには、私どもが一分間だって、いや、一秒間だって、この世に生きておるということすらが出けないほどの、大きなお恵みの中にあるのだけれども、そのお恵みというものを全然知らない。いわゆる、天地の大恩を知らないところからです、様々な互い違いな問題が起きてくる。それがめぐりになる、天地に対して無礼いたしと仰る、そこなんだ。ね。
天地に対するところの無礼いたし。そこに、互い違い、不幸、難儀というものが在るのである。ね。生神金光大神天地金乃神一心に願え、一心に願わせて頂くことは、私の心の上に、どうぞ、和の心、賀の心。いわゆる、和賀心、和らぎ賀ぶ心を頂かせて下されいなんだけれども、なら、ただ和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さい、頂かせて下さいだけでは、和らぎ賀ぶ心にはならんのである。
いわゆる、おかげをおかげと気付かせてもらうという信心。おかげをおかげと分からせてもらう、いや、素晴らしいことを素晴らしい事として分からせてもらうという信心になった時に、素晴らしいことが分かった時に、はあ、素晴らしい。神様の働きの素晴らしさ、神様の道の鮮やかさということがです、ね、天然地然の中に、それを感じさせてもらう。これに、受け止めさせて頂く、そういう心というものが育って行くという、信心の心が育って行くのであり、和賀心が育って行くと、こういう事になるのじゃなかろうか、と。
和の心。これは、一つひとつ検討しなければならないと思う。今までは、ここ、和賀心というのを、ただ、和らぎ賀ぶ心とだけ、こう、頂いておったんですけれど、今晩の御理解を頂いておりますと、その、賀の心、賀びの心。それが、天地一切の、その働きそのものを称えるという心なんです。ね。自然の中に起きてきた私のこの不幸が、難儀とばっかり思うておったことをです、神様がこういう働きをもって、こういうおかげを下さろうとしておるという事が悟られた時にです、そのことに対して、お礼が言えれる。いわゆる、おかげをおかげと気付かせてもらえた時にです、神の感動がある。
その感動がこちらへ感動として伝わってくる、喜びとして伝わってくる。たくさんの人が一緒に、その海の景色の、二見が浦なら二見が浦の、いわば絶景と思われるような景色を眺めて、まあ、素晴らしいなあ、と言うておることは、何十人の方がみんな言うておるのである、思うてあるのである。ところが、田中さんにだけ、その感動が伝わって来るというのはです、そこに、信心を頂いておる者、金光大神の取次を頂いて、天地を拝ませて頂いておるという、親と子との繋がりていうものを持っておるから、田中さんの上にだけ感動が起こって来るのであるということを、私は感ずるのです。
ですから、そのように称える心がね、いつもなからなければいけない。このことは称えられるけれども、このことは不平を言う。このことは有り難いと思うけれども、このことは不足に思う。これではおかげにならん。今まで不足に思うておったことも、不平に思うておったことも、ね、ひっくるめて考えさせて頂いたら、降ることもおかげなら、また、照ることも有り難いんだと分からせて頂いた時にです、降ることに対して、照ることに対して、神様の働きを称えることになる。お礼を申し上げる心が生まれて来る。
そこに伝わって来るのが、賀の心、賀びの心。だから、これは絶対、信心させて頂かなければ、この賀の心は頂けないということが分かります。信心しておっても、賀の心の強い人もある、賀というのは喜びですよ。喜びの心が強い人もある。生まれつきに和の心。非常に、平生心というか、穏やかというか、そういう心の生まれつき持ってる人もあるけれども、それが、どちらかどっちがあってもいけない。その双方がです、車の両輪のようにおかげを頂けて行って、初めて、完璧なおかげの器ということが言えるのである。
私どもは、そこを目指すのである。和の心を、賀びの心を。そして、その、和の心はいかにすれば、賀びの心はいかにあれば頂けれるか、受けられるかということを、まず、分からせてもらう。和らぎ賀ぶ心の上に現われて来るところのおかげを受けて行くところの信心を進めて行きたいと思うですね。どうぞ。